ナイルの氾濫と古代エジプトの興隆
ナイルの氾濫
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ナイル川は長さが6,650km(現在)で世界最長の川。スーダン中央部からエジプトの河口付近までは砂漠で降水量が少なくエチオピア・タナ湖から注ぐ青ナイルとウガンダ・ビクトリア湖から注ぐ白ナイル上流が主な降水地帯である。特にナイル川の水源の84%はエチオピア高原に降る雨である。モンスーンにより6月中旬から9月中旬までの雨期に年降水量の8割が降る。ナイル下流では毎年7月中旬から増水し8月には少ない時の5倍の水が流入し、氾濫を起こしていた。水が引き始めるのは11月頃であった。
川の氾濫は上流の熱帯地域の肥沃な土を傾斜が小さく流れが緩くなる下流のエジプト流域にもたらし、豊かな実りをもたらした。
白ナイルと青ナイルの水量・雨量Wikipedia、旅行の友ZenTech
紀元前5000年までにナイル川下流域に集落が形成され農耕が始まった
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紀元前3万年頃、熱帯・亜熱帯気候の南方面から(エチオピア・スーダン方面)から古代エジプト人の祖先が移住してきた。ミイラの調査からこの祖先はアフリカ黒人であった。ヘロドトスの『歴史』には「色が黒く、髪が縮れている」という記述がみられる。
ナイル川の周辺は砂漠でありラクダなどの移動手段もなかったので川を下ってきたものと考えられる。下流は氾濫で堆積された肥沃な土地があっり、人々は定住、集落を形成し、紀元前5000年には灌漑農耕が行われていた。
「エジプトはナイルの賜物」、上エジプトと下エジプト
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「エジプトはナイルの賜物」とは古代ギリシアの歴史家ヘロドトス著『歴史』の中の有名な言葉だ。これによれば、ナイルの河口デルタの沖堆積が「賜物」となった広大な肥沃な灌漑農耕地になっていった。その堆積の速度は900年で高さ8ペキュス(約2.7m)との記述されている。
デルタを流れる5つの川が分かれ始める根元にあたるところに町ができた。メンフィス(メンピス)である。メンフィスを中心とし下流の農耕地帯を下エジプトといい、政治・宗教が移ったテーベを中心とするナイル河谷地帯を上エジプトという。
『歴史』によれば
今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物ともいうべきもので、エジプト人にとっては新しく獲得した土地なのである。[中略]エジプトという国の地勢を一言でいえばこうである--まず海路エジプトに近付き、陸地からなお一日の航程の距離をおいて測鉛をおろしてみると、泥土が上ってきて水深は十一オルギュイアであることが判る。これによって沖積土が実にこのあたりまで及んでいることが知られるのである。[松平千秋,岩波文庫]
上エジプトと下エジプトWikipediaの図を編集
3,000年続いたエジプト王国(31王朝)
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紀元前3150年頃、上下エジプトが統一され、王国は3,000年近く続いた。
・エジプト初期王朝時代(第1 - 2王朝、BCE 3150年-2686年)
首都:メン・ネフェル
ナルメル王は上下エジプトの王として確認される最古の王である。
・エジプト古王国(第3 - 6王朝、BCE 2686年-2181年)
首都:メンフィス
BCE 2550年頃クフ王、カフラー王、メンカウラー王のギザにある三大ピラミッド。
・エジプト第1中間期(第7 - 10王朝、BCE 2181年-2040年)内乱期
・エジプト中王国(第11 - 12王朝、BCE 2040年-1663年)
首都:テーベ
・エジプト第2中間期(第13 - 17王朝、BCE 1663年-1570年)内乱期
・エジプト新王国(第18 - 20王朝、BCE 1570年-1070年)
首都:テーベ
領土がナイル川流域を越えて最大。
BCE 1500年頃、トトメス1世がユーフラテス河畔まで侵攻、オリエント一円を属州とする。
BCE 1470年頃、トトメス3世によるアナトリア、アジア遠征。ヒッタイトバビロニアを属国化。
BCE 1360年頃、アメンホテプ4世(アクエンアテン)によるアマルナ宗教改革
BCE 1345年頃、ツタンカーメン王によるアメン信仰復活。
・エジプト第3中間期(第21 - 26王朝、BCE 1069年-525年)他民族支配による衰退期
・エジプト末期王朝(BCE 525年-332年)ペルシャの征服と王国の終焉
古代エジプトの暦の歴史
「一年という単位を発明したのはエジプト人」
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ナイル川の氾濫が周期的に起こり、植物の成長サイクルを予測できたとき農耕が生まれた。氾濫、種蒔き、収穫のサイクルから1年という概念が生まれた。
ヘロドトス『歴史』によれば
一年という単位を発明したのはエジプト人であり一年を季節によって十二の部分にわけたのもエジプト人が史上最初の民族である。[松平千秋,岩波文庫]
BCE 約3000年ごろまでは一ヶ月を30日、12ヶ月を1年とする伝統的な暦
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BCE 約3000年ごろ(初期王朝時代)まで1ヶ月を30日とした1年12ヶ月の暦が使用された。1年を約29.5日周期の月の満ち欠けと結びつけ一ヶ月を30日、12ヶ月の一種の太陰暦であった。ちなみに広く用いられた太陰暦は29日と30日を交互に組み合わせ4年に一回閏月を挿入して辻褄合わせる。
BCE 4000年頃には氾濫の周期と星の観測から、1年365日は知られていた
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氾濫の時期を予測することは農業にとって重要なことであった。氾濫はモンスーンという季節現象が原因であるのでだいたい決まった時期に起こった。毎年の氾濫の間隔の平均が365日であることは紀元前4000年ごろにはわかっていた。一方、星座の昇る位置(方向)も365日の周期で繰り返すこともわかっていた。
BCE 約3000年ごろ一ヶ月30日の12ヶ月に5日の閏日を加えた1年365日とする民衆暦が定められた
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約3000年ごろ統一王国によって国定の暦が制定された。一ヶ月を30日とする12ヶ月に加えて5日の閏日を設けた1年365日とする暦で、民衆暦(シビル暦)といわれた。ラーとトート神から与えられたものとして、代々の国王は即位時にこれを遵守することを神々に誓った。
ヘロドトス『歴史』によれば
エジプトでは三十日の月を十二か月数え、さらに一年については五日をその定数のほかに加えることによって、季節の循環が暦と一致して運行する仕組みになっている...[松平千秋,岩波文庫]
パピルスに描かれたシビル暦
http://alterminds.xyz/6-ancient-egyptian-inventions-we-still-use-today/
王国の神官たちは4年の閏年に閏日を1日加えるソティス暦(シリウス暦)を使用
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約3000年ごろにはシリウスのより精密な観測から1年の平均が365.25日であることが知られていた。王国においては神官は農耕など重要な年中行事には4年の閏年に1閏日を加えた官製の暦を使用していた。これをソティス暦(シリウス暦)といい太陽暦の基となった。しかしながら民間では神話に裏打ちされた365日の民衆暦を改訂しようとはしなかった。
古代エジプトの民衆暦(シビル暦)
1年は3シーズン
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エジプトの1年はナイル川の氾濫とそれを恵みとする農耕のサイクルであった。1年をナイル川の水位から「氾濫」「出現」「低水」と呼ぶ3シーズンに分けられていた。それぞれ、氾濫、種蒔き、収穫のシーズンであった。
ヘロドトス『歴史』によれば
河がひとりでに入ってきて彼らの耕地を灌漑してまた引いてゆくと、各自種子をまいて畑に豚を入れ、豚に種子を踏みつけさせると、あとは収穫を待つばかり。それから豚を使って穀物を脱穀し、かくて収穫を終えるのである。[松平千秋,岩波文庫]
3シーズン(期間は7月19日を新年の始まりとした場合)ヒエログリフ | シーズン | 期間 |
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| 「氾濫」 | 7/19 - 11/15 |
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| 「出現」 | 7/16 - 3/15 |
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| 「低水」 | 3/16 - 7/13 |
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| (追加日) | 7/14 - 7/18 |
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ヒエログリフ:http://www.polysyllabic.com/?q=calhistory/earlier/egyptian
「氾濫」 reference[3]
「出現」:種蒔き、成長 reference[3]
「低水」:収穫 reference[3]
1シーズン4ヶ月、1年は12ヶ月
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1シーズンは1ヶ月30日の4ヶ月で構成される。それぞれのシーズンの「第一の月」....「第四の月」という名称である。3シーズンで1年は12ヶ月。
12ヶ月ということから、古来は一種の太陰暦が使用されていたと考えられる。ちなみに月の満ち欠けによる周期は約29.5日であり、1年は約12.37周期である。太陰暦では月齢の精度を上げ、29.5日を30日と29日の大・小の月とし、太陽の動き、春秋分・夏冬至と整合させる工夫をした。一方、エジプトではナイルの増水がシリウスという星で観測されたため星の運行周期の精度を上げ、それに整合させる5日の閏日が採用された。また、現在でも占星術の基本である10日周期のデカンで構成された30日の暦となった。
エジプトの12ヶ月reference[3]
二重丸は決定詞の一つで太陽を表し太陽、光、時に関係した単語であることを示す
古代エジプトの日にちは、「王の何年目の何シーズンの第何か月の何日目」
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下の例は王朝の名前はわからないが「7年目の「出現」シーズンの第3ヶ月25日目」で現在の7月19日を新年の始まりとすれば1月29日である。またその下は、XVIII王朝のトトメス3世の時エレファント寺院における宗教祭りのカレンダー、Shemu (低水」シーズン)の第3ヶ月28日目にシリウスのヒライアカル(ヘリアカル)ライジングを観測したとある。民衆暦は365日固定なのでヒライアカルライジングは年々ずれていく。これから逆算してこの年はBCE 1471年頃だとわかる。
日にちの表記例 reference[3]
壁に掘られたの表記例、右下の赤線で囲まれているのがシリウス reference[3]
壁に掘られたカレンダー「氾濫」第2月~第3月 reference[3]
神話に5追加日(閏日)の生まれた理由が語られる
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イウヌあるいはオン(ギリシャ名:ヘリオポリス)における信仰、「ヘリオポリス神話」では、以下のような創世神話、「エジプト九柱の神々」の物語が語られている。
(これはギリシャ人が神々にギリシャ名を使用し伝えたものであるが、下記ではエジプト名を使用する)。
「原初の海ヌンより生まれた男神アトゥム(太陽神ラー)は、自慰により生じた精液と吐息を吐き出し、テフヌト(湿気)、シュウ(空気)をそれぞれ生じた。シュウとテフヌトの間にゲブ(大地)とヌト(天空)が生まれた。ゲブとヌトはずっと抱き合っていたため、シュウがそれを引き離した。[中略] シュウがゲブとヌトを引き離したときに、2神の子として、閏日に死の神オシリス、砂漠の神セト、生命の神イシス、ネフティス及びハロエリスが生まれた。」[Wikipedia]
この誕生のとき、太陽神「ラー」は「ヌト」に対してそのころの1年である360日に子どもを生んではならないとした。しかし、時間の神でもあった「トト神」が360日に5日を足し、「ヌト」はそれぞれ5閏日に5人の子供を生んだ。
天空の女神「ヌト」と大地の神「ゲブ」、二人の間にいてヌトを支えているのが「シュウ」Wikipedia
「ソティス暦」(シリウス暦)
太陽暦の基となる、ただし、太陽ではなくシリウス観測による暦
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ナイル川の増水が始まる頃にシリウスが日の出直前に昇ってくることからその観測・予測が農耕に重要であった。その観測から周期は365日であることはBCE 4000年には知られていて民衆暦となった。年を重ねるにつれ4年に一日のずれが生じることが分かった。そして閏日を平年は5日、4年毎に6日とする暦ができた。これが太陽暦の基となるソティス暦である。
シリウスが日の出直前に上る日が新年の始まり(夏至の頃)、月やシーズン名は民衆暦と同じ
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シリウスが日の出直前に昇ってくる日からナイルの増水が始まると信じられておりその日を起点に暦作られた。1年の360日の部分はラーが定めた日にちであり民衆暦もソティス暦も変わらない。
ソティス暦は神官が農耕や年中行事に使用、しかし、公式の暦は民衆暦
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王国ではファラオは神話の太陽神ラーが決めた360日とトト神が追加した5閏日を守ることを誓った。このため公式の暦は365日の民衆暦となった。しかし、農耕には精度の高い暦が必要で神官はソティス暦を用いて年中行事を行った。
ソティス暦と民衆暦が一致するのは1460年周期、ソティス暦はBCE 4241年、または、BCE 2781年に始まった
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1年が365日の民衆暦と閏日のある365.25日のソティス暦が同じ日にちを迎えるのは365/0.25=1460ソティス暦年あるいは1461年民衆暦年の周期(ソティス周期)である。CE 139年に暦が一致したのでソティス暦はBCE 4241年またはBCE 2781年に始まったと考えられている。
シリウスは全天で一番明るく目立つ星(太陽を除く)
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シリウス (Sirius) は、おおいぬ座α星、21ある一等星のひとつ。太陽を除けば最も明るく見える恒星である。オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオンと、冬の大三角を形成している。また、冬のダイヤモンドを形成する恒星のひとつでもある。
シリウス、冬の大三角、冬のダイヤモンド
スタディスタイル「冬の星座」の図に文字・線追加
http://www.study-style.com/seiza/winter.html
「ヒライアカル(ヘリアカル)ライジング」と「デカン(デカノス)」
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ヒライアカルライジングとはある天体が太陽を伴って東の地平線から昇る現象。実際には太陽が昇る直前に天体が昇ること。
一方、デカンは天の赤道に沿ったほぼ等間隔に並んだ36の星。エジプトでは昼の12時間と夜の12時間(12時間は10時間+日の出、日の入りのそれぞれ1時間)を使っていた。昼の時間は季節によって補正された日時計を用いていたが夜の時間を知るのにこのデカンの星を利用していた。星の位置から換算表を使い時間を知った。
シリウスのヒライアカルライジングから10日毎にヒライアカルライジングとなる星をデカンとしていた。360日なので36の星が指定された。ちなみに24時間を36で割ると40分である。
デカンの星は死者が時間がわかるよう棺桶の蓋や墳墓の壁などにも記されて残っている。個々の星に関してはまだ研究中で分かっていない星もある。
官の蓋に記されたデカン(一部)
UNESCO "The Tomb of Senenmut at Western Thebes, Egypt"
http://www2.astronomicalheritage.net/index.php/show-entity?identity=21&idsubentity=1
関連する暦
コプト暦
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コプト正教会で使われる。アレクサンドリア暦ともいう。ユリウス暦に同期している。
月 | 名称 | 日付(ユリウス暦) | 日付(グレゴリオ暦) |
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1月 | トウト(Thout) | 8月29日~ | 9月11日~ |
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2月 | パオペ(Paopi) | 9月28日~ | 10月11日~ |
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3月 | ハトール(Hathor) | 10月28日~ | 11月10日~ |
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4月 | コイアック(Koiak) | 11月27日~ | 12月10日~ |
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5月 | トーベ(Tobi) | 12月27日~ | 1月10日~ |
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6月 | メシル(Meshir) | 1月26日~ | 2月8日~ |
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7月 | パレムハート(Paremhat) | 2月25日~ | 3月10日~ |
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8月 | パレムウデ(Paremoude) | 3月27日~ | 4月9日~ |
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9月 | パションス(Pashons) | 4月26日~ | 5月9日~ |
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10月 | パオーネ(Paoni) | 5月26日~ | 6月8日~ |
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11月 | エペープ(Epip) | 6月25日~ | 7月8日~ |
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12月 | メソレ(Mesori) | 7月25日~ | 8月7日~ |
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閏日 | エパゴメネ(Pi Kogi Enavot) | 8月24日~ | 9月6日~ |
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エチオピア暦
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エチオピア及びエリトリアのエチオピア正教会や東方典礼カトリック教会、コプト正教会などに所属するキリスト教徒のための教会暦としても使用。
エチオピアの新年は、ウンコタタシと呼ばれる。これはソロモン王がシバの女王に指輪を贈ったことに由来するものである。
月 | 名称 | 日付(グレゴリオ暦) |
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1月 | マスカラム | 9月11日~ |
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2月 | テクムト | 10月11日~ |
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3月 | フダル | 11月10日~ |
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4月 | タフサス | 12月10日~ |
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5月 | トルウ | 1月9日~ |
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6月 | ヤカテイト | 2月8日~ |
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7月 | マガビット | 3月10日~ |
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8月 | ミヤズヤ | 4月9日~ |
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9月 | グンボット | 5月9日~ |
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10月 | サネ | 6月8日~ |
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11月 | ハムレ | 7月8日~ |
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12月 | ナハセ | 8月7日 ~ |
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閏日 | パグメ | 9月6日~ |
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引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
[ 1] Wikipedia、コトバンク、Weblio辞書
[ 2] 松平千秋「ヘロドトス 歴史」岩波文庫
[3] "Ancient Egyptian civil calendar", Biblical Archaeology, http://www.lavia.org/english/archivo/egyptiancalendaren.html
来歴
主な来歴。「てにおは」など軽微な修正は管理者の判断で来歴に載せないこともあります。
[2015.11.03] ORIGINAL